いわゆる「専門家」の役割とは

長く更新していないですが、研究は続けています。本当のところ、のんびりと猫に概念があるのかなどの問題を考えていたかったのですが、昨年はコロナとワクチンについて多くを考えた・・・というより考えざるを得なかった1年でした。

専門家の意見を指針とし政策決定すること自体に疑問は感じませんが、今回のコロナおよびワクチンについては、現在の科学では確定的なことを言うにはあまりにデータが少ない状態、所謂「不確定性の主張」が成り立つ状態だと思います。つまり、こうだと言い切るにはあまりにも構成要素が少なく、人によって、立場によってどのようにでも解釈できる状態にあると思います(詳しくは拙稿「二つの法モデル」参照)。このような状態において、「専門家」会議の結論のみを提示し、審議過程における様々な見解をほとんど取り上げない、少なくとも積極的に提示しない(もちろん調べればわかりますが)という政府ならびに報道機関の方針には正直疑問を感じます。YouTubeなどにおける規制・削除についても同様です。

以上の点についてすでに科学論において研究蓄積があるにもかかわらず、それが全く活かされていないのは本当に残念です。私が知っている限りでも、藤垣裕子さん『科学者の社会的責任』(岩波書店、2018年)特に第4章「不確実性下の責任」には、「トランス・サイエンス」すなわち「科学によって問うことはできるが、科学によって答えることができない問題群」に関し、専門家集団は「ユニークボイス(シングルボイス)」に固執するべきではなく「意見が分かれていることを示すこと」「幅のある助言をして、あとは市民に選択してもらう」べきとの指摘があります。「公式見解」という名の「シングルボイス」にこだわり、あり得る可能性を見えなくさせてしまうことは本当に「科学的」と言えるのでしょうか。藤垣さんには「科学政策論:科学と公共性」金森修・中島秀人編『科学論の現在』(勁草書房、2002年)という論文もあり今回の問題を考えるうえでも大変参考になります。しかし、本当に残念なことは、実際に私たちが経験した事態は、全く違っていたということです。

小林傳司さんも言うように、科学の細分化が著しく進んだ現代社会においては「専門家は非常に狭い領域の専門家であり、それ以外の分野に関しては実際のところは素人」である『特殊な素人』(小林「科学コミュニケーション:専門家と素人の対話は可能か」『科学論の現在』141頁、あるいは↓リンク貼っているWeb記事参照)ではないでしょうか。そのような「特殊な素人」である専門家に、あまりにも過大な役割を課していなかったかということも反省点ではないでしょうか。少なくとも「トランス・サイエンス」に関しては、専門家の役割を、何が正しいかを裁定する「裁判官」モデルから、政策決定に関与する政治家や行政官さらには我々市民に対し情報提供を行う「証人」モデルへと転換すべきではないでしょうか(藤垣「科学政策論:科学と公共性」参照)。

つまり、上記したように「幅のある助言をして、あとは市民に選択してもらう」ことが専門家の役割であり、決して何が正しいかを裁定する「裁判官」の役割を担うべきではないということです。そして、それは、今回のような不確定性の主張が成り立つ状況において、決定主体の明確化、責任の担い手の明確化に資するはずです。「専門家の意見に従い・・・といたします」というフレーズによるエクスキューズを防ぎ、「専門家の意見を参考に私たちで決めました」と主張できる責任ある決定主体を生成すること、これが今年の課題だと感じています(意図的に生成させていないきらいもありますが)。

・・・などなど昨年はいろいろ考えた1年でした。今年は良い年になればと考えています。

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ネコにとって飼い主さんって?

「猫を探しています」というチラシがポストに入ってました。ポン子、メス、2歳3ヶ月。1周間まえ、家のドアを開けたら出ていってしまったそうです。家出?このチラシで2枚めです。飼い主さんはさぞ心配しているのでしょう。。1日も早く無事見つかるといいですね。

でも・・・ポン子は飼い主さんを認識しているのでしょうか? 

 

 髙木佐保さん『知りたい! ネコごころ』(岩波書店、2020年)によると、ネコは「飼い主概念」を有しているそうです。ネコに「概念」といってもピンとこないので、ネコが「飼い主概念」を有しているとは、飼い主と飼い主以外とを識別できる事態と理解しておきます。

 野矢茂樹さんによるとネコが概念を所有するためには「追跡可能性」が必要とのこと。要するに、そのものを追っかけられるということです。野矢さんはウィトゲンシュタインを出発点にしているので、言語を有していないネコに概念をもたせるのに結構苦労しています(野矢茂樹『語りえぬものを語る』(講談社、2011年))。←野矢さんについてはもう少し正確に書き直します。

 さて、渡辺慧さんによるとウィトゲンシュタインを始めとする哲学者は言語偏重の罪を犯しており「帰納的機能は前言語的動物にすでに発生しているという事実に目をつぶっている」ということになります。帰納的機能とは、要するに「多に一を見る」ということです。私達は砂鉄に磁石を持っていったときにできるひとつのパターンに多数の砂を見る(感覚)のではなく、磁力線を観る(知覚)。また、様々な音階を単に聞く(感覚)のではなく、メロディーを聴く(知覚)。そして、このような「多に一を見る」のは人間だけではないと、渡辺さんは言います。「まとめるということは、必ずしも言語的な動物である人間の特徴ではないようです。・・・すべての動物に共通なひとつの特徴であって、それがなければ、動物は生きながらえることはできないと思います」(渡辺慧『知るということ:認識学序説』(東大出版会、1986年)、同『認識とパタン』(岩波新書、1978年))。

 とはいえ、そのように批判されるウィトゲンシュタインに、言語偏重から離れていこうとする傾向がなかったかというと、そうではなく、後期になればなるほどその傾向が強いと感じます。そしてこれは多くの論者が指摘していることでもあります。ちなみに私自身も、彼の『哲学的探究』においては「雰囲気」や「感情」こそが意味や規則成立の鍵となっていると理解しました(拙稿「法のオプティミズム」)。ここで、いささか結論めいたことを先取りして言えば、結局のところ、言語の内側(哲学)から出発するか、言語の外側(認知科学などの所謂自然科学)から出発するかが違うだけで野矢さんも渡辺さんもほとんど同じ地点にたどり着いています。

 では、その「ほとんど同じ地点」とはどのような地点なのでしょうか。ポン子は「飼い主概念」を獲得し、無事飼い主のもとに帰ることができるのでしょうか?

 

まずは、言語の外側、具体的には精神医学から出発してみたいと思います。

→取りかかりとして、黒川新二「乳幼児の精神発達の仕組み」『自閉症とこどもの心の研究』(社会評論社、2016年)

 

内閣法制局の「変化」

2021.1.16.朝日新聞(朝刊)に「解釈変更『神様が人間になった』」という見出しで、安倍政権下で行われた内閣法制局の安保法制解釈変更に関して書かれていました。一方当事者の防衛省側が内閣法制局の官僚に感じたという「変化」が興味深い。解釈変更以前は法制局の役人はたとえ下っ端であっても自信をみなぎらせて法解釈について主張していたそうだが、その「変化」以降は、誰もが「三人称」で「・・・らしいです」としか語らなくなったという(「彼らは当事者性がなくなったよな」「『らしい』って言われてもな」)。その背景には解釈変更の指針として「バイブル」と言われた法制局長官の想定問答集があり、法制局の官僚らはその問答集に沿った回答しかできなくなったという事情があるようだ。防衛省の役人たちは「神様だと思っていた法制局の人たちも我々と同じ人間になった」と感じたという。

 

ここで何が起こっていたのか。思うに、生きた法の帯びるオーラがなくなったということだろう。法は、オプティミズムな態度を取り続け解釈や立法、そして判決を中心とする様々な法判断を積み重ねていく中で、次第に生き生きと自立し、解釈者の勝手な判断を弾き返すダイナミズムを有してくる(参照、拙稿「法のオプティミズム」)。だが、無理筋解釈は法の生命とも言えるそのダイナミズムを毀損する(そのことは他でもない法制局の役人が肌感覚として知っているはず)。結果、生き生きと自立した法が発生させるオーラが失われ、そのオーラのもと「神様だと思われていた」法制局役人の権威もなくなり、自信をなくしたのであろう。法による支配から人(内閣及びその取り巻き)による支配への転換。法の権威は過去連綿と続けられた先人のオプティミズムな態度に支えられてはじめて成立するものであるが、自分たちが何を行っているのかわからない者によって損なわれるのは一瞬だということだろう。

法のオプティミズム −− R・ドゥオーキンの法理論、その一側面 −−

(2004年)

R・ドゥオーキンの法理論の輪郭を描きました。

法のオプティミズム / 法のプロテスタンティズムという視点で彼の法理論上の主著『法の帝国』を読み解けば、法とは何かについての見通しが付きます。

二つの方向の法の倒壊、すなわち「意味論的な法理論」と「内的懐疑論」というそれぞれの方向の倒壊。そして、それを防ぐための二つの態度、「法のオプティミズム」と「法のプロテスタンティズム」。『法の帝国』に目立たなく潜んでいます。

なお、前半はハートとドゥオーキンの議論がすれ違いに終わったのはなぜかという点を論じています。「解釈以前的な意味での法」と「解釈的な意味での法」、この区別をするかしないか、「何が法か」という問と「法とは何か」という問いを区別するかしないか、というよりこの区別に気がつくかどうか、ここが分かれ目だと思います。

 

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二つの法モデル −−  H・L・A・ハート『法の概念』追記についての部分的検討 −−

(2002年、公表)

規準(criteria)をキーワードにH・L・A・ハート『法の概念』追記(補遺)を素材に、ハートとR・ドゥオーキンの法理論の対立点がどこにあるのかを検討しました。

この論文で展開した法の存在論や法モデルの素描の精緻化と倫理全般との接合が現在の関心です。

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