ネコにとって飼い主さんって?

「猫を探しています」というチラシがポストに入ってました。ポン子、メス、2歳3ヶ月。1周間まえ、家のドアを開けたら出ていってしまったそうです。家出?このチラシで2枚めです。飼い主さんはさぞ心配しているのでしょう。。1日も早く無事見つかるといいですね。

でも・・・ポン子は飼い主さんを認識しているのでしょうか? 

 

 髙木佐保さん『知りたい! ネコごころ』(岩波書店、2020年)によると、ネコは「飼い主概念」を有しているそうです。ネコに「概念」といってもピンとこないので、ネコが「飼い主概念」を有しているとは、飼い主と飼い主以外とを識別できる事態と理解しておきます。

 野矢茂樹さんによるとネコが概念を所有するためには「追跡可能性」が必要とのこと。要するに、そのものを追っかけられるということです。野矢さんはウィトゲンシュタインを出発点にしているので、言語を有していないネコに概念をもたせるのに結構苦労しています(野矢茂樹『語りえぬものを語る』(講談社、2011年))。←野矢さんについてはもう少し正確に書き直します。

 さて、渡辺慧さんによるとウィトゲンシュタインを始めとする哲学者は言語偏重の罪を犯しており「帰納的機能は前言語的動物にすでに発生しているという事実に目をつぶっている」ということになります。帰納的機能とは、要するに「多に一を見る」ということです。私達は砂鉄に磁石を持っていったときにできるひとつのパターンに多数の砂を見る(感覚)のではなく、磁力線を観る(知覚)。また、様々な音階を単に聞く(感覚)のではなく、メロディーを聴く(知覚)。そして、このような「多に一を見る」のは人間だけではないと、渡辺さんは言います。「まとめるということは、必ずしも言語的な動物である人間の特徴ではないようです。・・・すべての動物に共通なひとつの特徴であって、それがなければ、動物は生きながらえることはできないと思います」(渡辺慧『知るということ:認識学序説』(東大出版会、1986年)、同『認識とパタン』(岩波新書、1978年))。

 とはいえ、そのように批判されるウィトゲンシュタインに、言語偏重から離れていこうとする傾向がなかったかというと、そうではなく、後期になればなるほどその傾向が強いと感じます。そしてこれは多くの論者が指摘していることでもあります。ちなみに私自身も、彼の『哲学的探究』においては「雰囲気」や「感情」こそが意味や規則成立の鍵となっていると理解しました(拙稿「法のオプティミズム」)。ここで、いささか結論めいたことを先取りして言えば、結局のところ、言語の内側(哲学)から出発するか、言語の外側(認知科学などの所謂自然科学)から出発するかが違うだけで野矢さんも渡辺さんもほとんど同じ地点にたどり着いています。

 では、その「ほとんど同じ地点」とはどのような地点なのでしょうか。ポン子は「飼い主概念」を獲得し、無事飼い主のもとに帰ることができるのでしょうか?

 

まずは、言語の外側、具体的には精神医学から出発してみたいと思います。

→取りかかりとして、黒川新二「乳幼児の精神発達の仕組み」『自閉症とこどもの心の研究』(社会評論社、2016年)