内閣法制局の「変化」

2021.1.16.朝日新聞(朝刊)に「解釈変更『神様が人間になった』」という見出しで、安倍政権下で行われた内閣法制局の安保法制解釈変更に関して書かれていました。一方当事者の防衛省側が内閣法制局の官僚に感じたという「変化」が興味深い。解釈変更以前は法制局の役人はたとえ下っ端であっても自信をみなぎらせて法解釈について主張していたそうだが、その「変化」以降は、誰もが「三人称」で「・・・らしいです」としか語らなくなったという(「彼らは当事者性がなくなったよな」「『らしい』って言われてもな」)。その背景には解釈変更の指針として「バイブル」と言われた法制局長官の想定問答集があり、法制局の官僚らはその問答集に沿った回答しかできなくなったという事情があるようだ。防衛省の役人たちは「神様だと思っていた法制局の人たちも我々と同じ人間になった」と感じたという。

 

ここで何が起こっていたのか。思うに、生きた法の帯びるオーラがなくなったということだろう。法は、オプティミズムな態度を取り続け解釈や立法、そして判決を中心とする様々な法判断を積み重ねていく中で、次第に生き生きと自立し、解釈者の勝手な判断を弾き返すダイナミズムを有してくる(参照、拙稿「法のオプティミズム」)。だが、無理筋解釈は法の生命とも言えるそのダイナミズムを毀損する(そのことは他でもない法制局の役人が肌感覚として知っているはず)。結果、生き生きと自立した法が発生させるオーラが失われ、そのオーラのもと「神様だと思われていた」法制局役人の権威もなくなり、自信をなくしたのであろう。法による支配から人(内閣及びその取り巻き)による支配への転換。法の権威は過去連綿と続けられた先人のオプティミズムな態度に支えられてはじめて成立するものであるが、自分たちが何を行っているのかわからない者によって損なわれるのは一瞬だということだろう。